Amazonプライムに入ったのです
叩かれることの多いAmazonですが、この会社の便利さはすでに生活に密着しているといっても過言ではないでしょう。先日、色々と利便性が高いということでAmazonプライムに加入しました。とはいっても、別に配送を早くしたいとか、そういう訳ではないのです。ビデオコンテンツで観たいのがあるから、というのが最もの理由。最近はNetflixにも入りたい気持ちになって来て、その衝動を抑えるのがやっとな毎日です。
さて、巷で話題の『ドキュメンタル1』観ましたよ。タイトルの正式名称だと文字数が多いので、先述した略称で失礼します。
この作品が面白かったかどうか、恐らく、観賞する人によって大いに別れる、千差万別ではないかと思います。大ハマりする人もいれば、二度と観たくない、と拒絶反応を示す人もいるでしょう。私は面白いと感じましたが、楽しい・笑える、という観点ではなく、笑いを追求するための壮大な実験として、その試みが面白いと感じた。そういうことです。
松本人志の実験場
私が最も好きな芸人はビートたけしなのですが、松本人志も好きです。年末は必ず『笑ってはいけない』を観ています。私が抱いている松本人志に対してのイメージは笑いの探求者です。彼はすでに業界での立ち位置として、<笑いを極めている者の一人>といっても過言ではないと思います。ただ、笑いは奥深い魔窟であって、人間によって価値観や感性が異なりますから、何をどうしたら笑いに繋がるのかが分からない。これは本当に、誰にも分からない事なのではないのかと考えています。笑いを生む行為、単純な話芸から体を張った下ネタ、小道具を使ったボケ、シュールで一つ間違ったら滑ってるだけのネタにも面白みを感じる人間がいますし、私の例でいえば真面目な場面ほど笑えてしまう──というのも、笑いの感性としては存在しているでしょう。それだけ笑いは難しいのです。会議で真面目に喋っている人を見ると「なぜ、こんな内容を真剣に語っているんだろう。そして、なぜみんな真剣に聞いているんだろう」なんて時に客観的に笑いがこみ上げてくる、そんな私です。きっと、頭がおかしいのでしょう。
さて、松本人志はお笑いの業界において<面白さ>を決める立場になっています。これは凄い事なんですよね。人によって笑いはツボが異なるのに、何が面白いかを判断して決めるのですから、万人に共通する普遍的な価値観を持たなくてはならない。彼自身が「これは誰にとっても面白いだろう」と考えて行動しているのかどうかは謎ですが、あらゆるお笑い番組において登場する際は、大抵<笑いを決める立場>になっています。松本人志の価値観がイコール世間的な笑いになって来ているわけですね。それでテレビ番組は制作されているわけですから、笑いにおいて重用される人物であることは疑いようがありません。念のため書いておきますが、皮肉ではなく褒めております。
今回の『ドキュメンタル1』はとても単純な設定です。密室にお笑い芸人を10人集めて、6時間で誰が一番面白いか決める。笑ったら負け。最後まで残った奴は1000万円。それだけです。シーズン1は細かい設定は全くなく、この試みの先駆を担っています。ある意味では、笑いを追求するための最初の犠牲として選ばれたのではないでしょうか。このシリーズが長く続いていくのであれば。ただ、だからこそ、まだルールの縛りなどがないからこそ、笑いを通して人間を見ることが出来たと私はそう思っています。
時間と笑い、あと人間
『ドキュメンタル1』の出演者は、以下の10名でした。
- 宮川大輔
- FUJIWARA 藤本敏史
- ダイノジ 大地洋輔
- 野性爆弾 くっきー
- とろサーモン 久保田和靖
- トレンディエンジェル 斎藤司
- 東京ダイナマイト ハチミツ二郎
- マテンロウ アントニー
- 天竺鼠 川原克己
- ジミー大西
あまり失礼なことはいえませんが、王道から変化球までバラエティに富んだ人選ですね。このラインナップで人間と人間がどういった化学反応を起こすのか、非常に興味をそそられました。
実際に全話を観てみまして、色々と思うところがありましたが、最も強く抱いた気持ちは、人間の思考能力は時間と共に明確に減衰していくんだなと。
面白い芸人が10人も集まって、全員が面白いことを自由に演れる空間。夢みたいな舞台ですよね。そこで面白いことをする人が、別の面白いことをする人とぶつかって、相乗効果的にもっと面白い事態になる(はずだ)。実際、冒頭からしばらくは皆にも余裕があって、細かい出来事が起きる度に面白い。特に人数が多い間は、偶発的な笑いがそこかしこに転がっていて、貰い事故気味に笑いが起きる。何が起きるか分からない点からも、スタート当初から中盤までは<笑いの幅が広い>。しかし、時間が経つにつれて人数が減ると、明確に演れることが減ってくる。また、人間の思考能力が低下していく。「面白いことを何かしよう! 誰かを笑わせよう!」という考えを継続させて、しかもそれが6時間ともなると、その集中力を持続させるのは至難の技だし、最終的には「何が面白いのか分からなくなる」状態に陥っていく。
本編の最後の方へ行くと、面白いことをしようとする行為のレベルが下がっていくのが分かる。また、体力が減ることによって余裕がなくなり、人は無表情になる。元々がお笑いの感性が高い人達なのだから、面白くないことには笑わなくなる。こうなってくると、鑑賞者側としてはエンタテインメント性が薄れていくから「なんだつまらない」と感じてしまいがちなのだが、それは単純に観過ぎで、私は「こんなに面白い人達が集まってもこうなってしまう、人間の能力の限界」を観せてもらった気がするので、とても感心した。そしてこの松本人志の試みによって“笑い”とは如何なるものなのか、その片鱗を垣間見れたような印象がある。
正直、シーズン1はまだまだ究極の笑いに至るまでの実験段階であって、舞台装置が整っていない。ルールの策定も甘かった。最終的な結果は少し残念なものであったが、人間観察的には得難い鑑賞経験だった。
下ネタ批判が多いが
このコンテンツにおいては下ネタ批判が多い。Amazonのレビューを観ると、下ネタが不快と書いているものが多い。その感想は人の価値観によるものだし、私個人も下ネタが面白いと感じる人間ではないが、それよりも芸人が<面白いことをしようと考えあぐねいて、最終的には脱ぐしかない! という思考に至る過程>が観られたのは凄いことなんじゃないか? と感じる。だって、このクラスの芸人達なら、冷静に考えれば裸になることで周りの芸人が笑うなんて考えないでしょう。ネタが切れて、タマを失って、思考能力が衰退した段階で下ネタに走るってのは、要は人間の限界なんでしょう。『ドキュメンタル』で裸で笑ってもらうなら、冒頭の登場時に全裸であることくらいしか思いつかない。出オチとギャップ笑いくらいしか、裸の下ネタは通用しない。それでも下ネタに走るのだから、鑑賞者としては、そこまで追い詰められる芸人の哀愁を感じることの方が稀有な経験だ。だから凄いということ。地上波では出来ない自由な空間だからこそ、人間が笑いにおいて、どこまでいけるかを知ることが出来る。だから、個人的には下ネタは面白くはないが、要素としても選択肢としても必要だとは思う。
どんどん面白くなるコンテンツだと思う
シーズン1は先にも記した通り、実験の意味合いが強くて後半のグダグダさ加減も好事家以外には受け入れ難いものだったのではないだろうか。消費者は残酷なので、金を払っているなら尚更「ずーっと面白いコンテンツ」を欲しがる。それって物凄くハードルが高いことなんですけどね。人間の本能的な部分なので仕方がない。ただ、この『ドキュメンタル』は試みとして優れているので、ルール設定を洗練させるのと、出演する芸人達がこの舞台との向き合い方を把握し始めたら、大きく化けていくだろう。最初からアクセル全開では体力が持たない、思考力も持たない。戦略として、後半にどのように立ち振る舞うのか、笑わなくなった相手の芸人を笑わすのに効果的な手段の確立。シーズンを繰り返して材料が増えてくれば、しっかりとした武器としての<あざとさ>が、新たな面白みを生んでいくのではないか。
このコンテンツはシーズン5くらいでやっと完成していくくらいのものだと思う。それまでに様々なことを試さなければならない。人選も重要だし、出演者の(番組に出るにあたっての)研究も大事だ。6時間の設定が続くものだとして、残り1時間の段階から飛躍的に面白くなる展開を生み出すことが出来れば、人間の限界を超えた笑いが観られるのではないだろうか。今後もシリーズを追っていこうと考えているが、シーズン1だけで見放すのはとても勿体無い、長い目で見ていく必要があるのは間違い無いだろう。私は楽しみにしています。人間の体力も思考力もぶち抜いていくのを。
余談──もしも自分が芸人でこの番組に参加することが出来たら、最も強いのは<言葉を駆使したシュール芸>だと考える。体を張った芸は難しいのではないか。まあ、シュール芸は相当に高度なものが求められるとは思うが……。【管理番号:ま001-001-001】