はじめに
私はサービス業をしております。
沢山の方々がいらっしゃる中で、当然、親子連れも多いですし、カップルも多いですし、年配の方も小学生や中学生の方も、様々な方がいらっしゃいます。所謂、エンタテインメント施設で勤務をしております。
多くのお客様の接客を賜らせて頂いているわけではありますが、時折、当方の拙い接客やサービスにご意見を頂戴することもあります。
ただ、どんなご意見だろうとお叱りの言葉だろうとクレーム(苦情)だろうと、真摯に対応するのが当たり前で、それを実践するのが自分の仕事の<責任>だとうと考えております。
しかし、仕事であっても、相手側にはそれが常のように、あまりに理不尽なクレームを受けることが多々あります。理不尽と言っても、それぞれの個人に主義や主張などがありますから、何を言われても適切にご意見を捉えて解決策を提案するのが当然なのですが、中にはそうした解決策すら一蹴に伏すような事例もございます。
多くが個人でいらっしゃるお客様ではあるのですが、中には家族連れで大層な内容の文句を賜ることもあります。
それも含めてサービス業だとは重々、承知しているのですが、どうしてもワケの分からない意味不明なご意見も中には存在し「何ぞ大儀な主張だなぁ」と感慨に耽る実情も存在します。
私の偏見を書きます
私は結婚に関して大きな偏見を抱いております。私自身、まだ結婚を体験していない身分ではありますが、簡単に言うと、<結婚をしている人達は、マトモである>というものです。そう書くと、結婚をしていないある程度の年齢を経た方々がマトモではないという逆説的な結果も生まれてしまいそうではありますが、それはそうではなく、結婚を経験していなくともマトモな人を私は大勢知っておりますし、結婚をしたからと言ってもその御両人が社会生活上で優れた人々であると申しているわけではございません。ただ、結婚という一種の契りを果たすのであれば、男も女もお互いを心底認め合って(異論は認めます)、一緒になる。という段階を経ているのではないかと、昔は思っておりました。
だが、こうした考え方に間違いがあったのではないかと、ふと感じたのは、社会人生活を数年送った後であります。つまり、私が働いている職場で、私がクレームの対応をした中で「これはマトモな人間じゃないぞ!!!!」などと、相手方をお客様であるにも関わらず、高慢ちきに感じてしまったことが起因しております。
例えばで申し上げますが、余りにも理不尽な例で言うとこういったことが挙げられます。これは小売店の例ではありますが『年末セール! 全ての商品が50% OFF! 期間は12月25日~31日迄』こんな表記があったとします。ある家族がご来店し、1月18日に商品を購入したが、「年末セールの対象でないのはおかしいではないか!」と言う、こういったケースです。
表記上の問題を言うならば、確かに<何月>が抜けていたのは小売店側のミスであるようにも感じます。しかし、一般常識というあやふやな定説で言うならば、「○月○日~○日迄」と記載されていれば、それが当月中であることは容易に推測が可能です。
しかし、前段の例で言うならば31日が何月の31日なのかを明記していなかったのは、単純に隙があったとも言えますし、私も当事者であれば、そう思います。もしかしたら省略がされていただけで、1月31日だったかも知れないし3月31日かも知れない。<年末セール>などと言う枕詞は消費者には関係がなく、あくまで小売店側の問題に他なりません。
こうした事例が発生した場合、従業員は「年末セールは12月31日迄なんですよね……」と、当然説明はするでしょうが、それに納得しない顧客は一定数存在します。文句を言う時は「何月なんて一切書いていなかっただろう! 不親切だ!」となります。
こういった時に責任者が呼ばれ、お客様のご意見を十二分に受け入れた後「しかし、当方では12月31日迄ということで、ご案内を差し上げているのですが……」と顧客の理解を得るのが最善の方策になります。
しかし、こうしたクレームを賜った場合、それで納得しない顧客が一定数存在するのは確かなのです。
偏見を更に深く
こういったクレームを申し上げるお客様は大抵が個人のお客様であることが多いのですが(これも偏見ですね)、中には家族連れで鬼の首を取ったかのように大きな声で文句を重ねる方もいます。
「記載がなかったのだから、責任を取るべきだ!」と家族連れのお父様が仰ることもあります。その場合の責任がどういったものになるのかを、また交渉として重ねなければならないのが中間管理職の辛い所ではありますが、ただ単純にお客様のご意見だけを採用して問題のある前例を作るような対応をすることだけは避けなければなりません。いくらでも時間を取り、交渉・交渉・交渉が常ではありますが、私共が折れなければならないような理論をぶつけてくる方も中にはおります。それは別の話として、私が此処で申し上げたいのは、結婚をしている人の話でした。
私が結婚をしている人に対しては以下のイメージがあります。
- 当事者(男と女)がお互いを認め合っている。それが愛情だったり、金銭面であったり、社会的な地位であったり。
- 当事者同士の両親が、自分の子孫が結婚することを認め合っている(最近の例ではあまり当てはまらないか)。
- 結婚をするのだから、ある程度の社会的常識は身に付いている。
- お互いがお互いを信頼し、尊敬している。また、時折の配偶者の判断を自分の判断と同義に捉えられる程に近しい存在。
- 周囲の人間が、この配偶者達を形式的に評価している。
こうした内容である。さもすれば、彼ら(または彼女ら)がとある小売店でクレームを付けるような事例に陥るのであれば、それはこのカップルがどちらも<クレームを付けるに相当する事案だ>と理解しているのではないか、と私は考えている。
しかし、小売店側に対して、上記で記載したような、あまりにも理不尽なクレームを付けるのは本当にカップルのどちらの価値観とも合致する事案なのだろうか? と、最近は感じるわけです。
誰しもに分かりきっている結末
こんな偏見を書き連ねて炎上する可能性もあるのではないかとは思うが、ずっと独り身でいる個人と比べて、結婚を経験したことがある人は、もう少し<大らかな気質>を持っているのではないかと、私は考えておりました。
人生の一大行事を越えた人間であるならば、先の50%が云々に関しても、責任者の説明があれば理解を賜ることが出来るのではないか、と。
しかし、現実はそうではなく、結婚をしていようがしていまいが、理不尽なクレームを付けてくるのは、あくまで個人の気質によるものである。というのが、私の推論であります。
たとえ、結婚をしていたって、ワケの分からない理屈を振り翳して来る顧客はおります。一店舗の責任者では事案が落ち着かず、本部が介在してしまうような事例は日本中にあるでしょう。そうであれば、果たして<結婚>というものが他者に示す道義的価値とは一体何なのか? と、くだらないことを考えてしまいます。
問題の無い気質を持っている同士が結婚をすることもあるし、問題アリアリな当事者同士が結婚をすることもある、どちらか何れに問題を抱えている当事者が結婚することもある。とにかく、結婚をしているというステータスが<常識>を示すバロメータには決してならないのだなぁ、と独り身の私は思います。
昔は、結婚をしているというだけで、尊敬の対象として見ていたのだけどな……。
社会と結婚
私の友人で、大手電機メーカーに勤めている方がおります。
彼は非常に先進的な振る舞いをする方で、ある方では「我が儘である」という評価もされるような人です。彼が昔申していたことで印象に残ったのは「ウチの会社は結婚をしていないと上司に評価されないんだ。マトモな人間じゃないと思われる」というものでした。
こうした発言も、私の思考に幾ばくかの影響を与えたのかも知れません。彼の会社は結婚を経た上で、会社の地位についても考慮するという不思議な社風ではありますが、しかしこうした実例があるのであれば、<結婚>というものが一個人に与える影響もそれなりに大きいのだなぁ、と感じる次第であります。
ちなみに、私の両親の話で言えば、これは遠慮をする必要がないので言いますが、母親は非常に尊敬が出来る人間でした。逆に父親は自分本位で身勝手な存在であり、最近になって浮気の事実が発覚し、母と離婚調停中であります。父はアル中でもありますので、そうした点を踏まえても、やはり結婚をしているからと言って、マトモな人間であると評価するには、どうにも早計なのだろうなぁ、ということで本稿は閉じさせて頂きます。