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公開終了日に今更ながら『君の名は。』鑑賞してきました《評価・感想・レビュー》

とても美しい映画だった

 私にとって、今日という日は忘れてはならない日となった。日は跨いでしまったが、2017年4月14日は忘れてはならない日だ。

 映画『君の名は。』だけでなく、自分の人生にとって、今日という日はある意味では一つの節目となる日となったからである。

 さて、それでは『君の名は。』について感じたことを書いていきたいと思うが、私は本作が公開されてから話題となっていることもあって、絶対にネタバレを見る事だけは避けようと極限まで気を遣って今日という日を迎えることが出来た。事前の知識は一切なく、映画の予告編しか観ていない。知っている情報は、男女が入れ替わる話であるということだけ。映画が公開されてから半年以上が過ぎ、ついに各映画館では軒並み上映が終了となりつつある中で、私は『君の名は。』を観ることが出来た。端的に、幸せな経験となった。映画を鑑賞している最中も、鑑賞後の今も、とても充実感のある幸せな気持ちを抱いている。とても良い映画だった。鑑賞出来て良かった。全てが美しかった。全てに意味があった。ハラハラしたし、ドキドキもした。見応えがあって、余韻も残る。現時点で興行収入が248.7億円。こんなに人が入った映画は、最近では『アナと雪の女王』くらいなのだが、それだけ多くの人が観たのも納得がいく素晴らしい作品だった。

 ちなみに、私が観た上映回は最終上映日のレイトショーだったが、40人余りの方が映画を鑑賞していた。「この中のどれだけの人が既にこの映画を観ているんだろう?」きっと、殆どの人は鑑賞済みなのかも知れない。そんなどうでも良いことも考えてしまった。

 以降、ネタバレを含む内容となるため未鑑賞の方は注意されたし。


「君の名は。」予告

すれ違うもどかしさ

 これまでに新海誠監督の作品で鑑賞をしたのは『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』『雲のむこう、約束の場所』『言の葉の庭』の4作品。『星を追う子ども』は近々観たいと思うが、私が鑑賞したそれぞれの作品全てに一貫していえることは、そのどれもが主人公とヒロインとの距離を主軸に描かれていたということ。物理的距離、精神的距離、場合によって異なるが<逢いたいのに逢えない二人>が描かれてきたように思える。いずれも切なく、もどかしく、苦しく、救いがない(気がする)。

 だから新海監督の作り出した本作も「もどかしく、すれ違う」作品なのだろうな、と漠然に思っていた。予想はある程度的中していたが、最終的には裏切られることとなった。

 私は映画を観る時にカタルシスを感じたいといつも思っているのだが、『君の名は。』にはカタルシスがあった。とても嬉しいカタルシス。

 これまで新海監督がすれ違いはすれ違いのまま終わらせていた所を、本作ではそうはさせなかった。この決断には大きな逡巡があったと思う、絶対に。これまでの新海監督のポリシーとは異なっているような気もするが、これは新海監督自身が、脱新海を達成した事になるのではないだろうか? 映画を観る我々がとやかくいうことでないのは確かだし、此処に無責任に書き散らしているのも無責任かも知れないが、私は「よくやってくれた!」と賛辞を、本当に心底から送りたい。

セカイ系に分類される物語だと感じた

 主人公の立花瀧とヒロインの宮水三葉は、ある日突然にお互いの身体(正確には心)が入れ替わり、お互いの日常を体験する“入れ替わり”をしてしまう。それぞれの日常に戸惑いを感じながらも日々を過ごしていくが、その出来事の重大な意味に二人は気付く事になる。

 それは三葉の住む町が隕石の被害に遭い、甚大な被害に見舞われてしまうという事、瀧はその事実に気が付き、何とか三葉と町を救おうとするが、二人の間には時間という絶望的な隔たりがあった……。

 このボーイ・ミーツ・ガールの基本的な設定に入れ替わりという(悪くいえば使い古された)手法を取り入れ、彼ら彼女らの世界を救おうとする物語は間違いなくセカイ系に分類しても良いだろう。このプロットは王道も王道で、ストーリーだけ場面場面を羅列してしまえば<とても普通で普遍的な>映画といっても間違いはないだろう。しかし、そこで新海監督の描き出す世界の描写、熟達したアニメーター陣の作画、RADWINPSの音楽、それぞれが奇跡的な相乗効果を果たし、観る者を感動させる効果を生み出したのは結果を見れば明らかである。私も映画を観ながら「何故、この映画はこんなに心を揺さぶるのだろう?」と考えていたが、それは私たちが日々求めている「こうであったら良い」「こうあるべきだ、こうなって欲しい」という気持ちをストーリーの中に織り交ぜてくれたからでないだろうか。

 私はいつも荒んだ毎日の中で「どうしてこうじゃないんだろう」「どうしてそうならないんだろう」というフラストレーションを抱えながら生きている。でもそれは、大抵の人がそうで、<誰しもが願う世界>が自分の現実世界に具現化して現れてくれる事なんてそうそうない。しかし、いつも心のどこかで物事がこう進んで欲しい、こうであったら良いのに、という気持ちは拭い去れない。私もいつも願っている。世界がもっと美しくあったら良いのに、世界がもっと幸せになれたら良いのに、と。

『君の名は。』はそうした私たちの「世界がこうであって欲しい」という願いを具現化して、それを観る者にとって最も美しさを伴ったカタチで表現してくれている。だから、観ていて喜びや幸せな感情が呼び覚まされるのだ。私たちが『君の名は。』を観ている時に「こうなって欲しい」「なんとか救われて欲しい」「二人が出逢って欲しい」といった無意識的な願いを叶えてくれる。斜に構えた見方をしてしまえば、御都合主義も甚だしいと評する者も当然いるだろうが、個人的な意見をいわせて貰えば、私は誰しもに幸せであって欲しいと願っている。救われて欲しいと願っている。そうした心の中にある願いを極めて直接的に描いてくれている本作は、観る者が安心して好きと思える優しさに溢れていたのではないかと感じる。

願いが具現化される、類い稀な結末

 本作の結末には当然、賛否両論が渦巻いているだろう。特に、これまでの新海誠監督の作品が好きな方にとっては、最後の結末こそが「そうなるか……」とがっかりしてしまう内容だったかも知れない。しかし、新海監督が当然あの結末を描くまでに思い悩んで右往左往したことは想像に難くない。あの結末は新海監督の覚悟そのものだったのではないだろうか。

 物語性の美しさを取るのであれば、瀧くんと三葉は最後に出逢ったかどうかまでは描く必要はなかった。出逢いそうだが、出逢うかどうかは鑑賞者の想いに任せる──そういった結末を描くことも当然出来ただろう。鑑賞後の余韻を強固なものにするのであれば、それもアリだったかも知れない。だが、今回の作品ではその明確な結末まで描かれた。これは願いの集積を表現するかどうかの狭間であって、描くことには躊躇がいるし、表現者としては絶対に思い悩むパズルの最後のピースだった。このピースを嵌めるか嵌めないか、これは大きな決断が必要だったのは間違いがなく、それでも結末をあのように描いたのは私は正解だったと思う。あの最後のピースが嵌ったことによって、本作がエンタテインメントの傑作として結実したのではないかと思うからだ。

 この映画を観る者の願いは、瀧と三葉の邂逅だ。物語の中盤から、その願いはどんどん強くなる。表現者としては如何ともし難い部分だ。そこを描くことによって、物語性の美しさが破綻することになるかも知れないし、新海監督にとってはこれまで自分が描いてきた『君の名は。』以外の物語をある意味では否定することになる。だが、それがなんだというのだろう? 二人が出逢うことが幸せなことであるならば、それを明確に描くことが物語の正当な帰着だ。私は、新海監督がそこまで描き切った、この結末を監督自身が受け入れたこと自体が本作がヒットするかどうかの分岐点になっていたと思う。よって、あの結末はこの上なく、正解だったのだ。

 これまで新海監督がすれ違いを徹底して描き、それこそが至高であったかのような言説は思考停止の産物だと思う。そういったレビューや評論は目にしたが、彼がクリエイターとして物語を完全に閉じるカタチで表現に決着を付けたことこそが『君の名は。』が新海作品の中で最も優れた傑作となった所以だと確信している。人は変わっていくものなのだから、新海監督自身がそうした自己を受け入れたことこそが本作の類い稀なカタルシスに結実したのだろう。今から次回作がとても楽しみである。次は早めに観よう、本当に。

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