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没個性テーマパーク:EXTRA

Wait a minute, wait a minute. You ain't heard nothin' yet!

絶望への強烈なカウンター『ただ、それだけでよかったんです』を読みました《評価・感想・レビュー》

いじめの多面性を描く意欲作

 第22回電撃小説大賞<大賞>を受賞した本作。第22回の応募総数は4,580作品だったそうです。相変わらず電撃小説大賞の人気度が高い。

 私は本作の表紙だけ見て、何だかロマンチックな絵柄でしたので「感動作なのか!?」と思って本書を購入しました。正直なところ、それは壮大な勘違いで、全くこの小説は感動作ではなく、むしろ超ブラックな内容なのでした……。

 しかし、読み終わって思ったのは「この作者は凄い挑戦を仕掛けて来たな。あと、電撃文庫の編集部の挑戦意欲も凄い!」というものでした。この内容で、どうして電撃小説大賞に応募したのかは全く分かりませんが、大賞を受賞したのですから正解でしたね。最近の電撃小説大賞受賞作の多様さには目を見張るものがあります。メディアワークス文庫があるから、というのもあるでしょうけど、編集部の「世の中に様々な、通り一辺倒ではない小説を送り届けよう!」という気概すら感じます。

 さて、見出しにもある通り、本作は<いじめ>を鮮烈な描写で綴った挑戦的なストーリーです。作者の松村涼哉は学生時代に社会学を専攻していたようですから、そうした面も本文に効果的に現れているのではないでしょうか? 多分。楽しめる……内容なのかは人によるかも知れませんが、なかなか衝撃度の大きな読書経験となったことは間違いありません。本書は280ページの文庫で読書時間は3時間弱といったところでしょうか。

あらすじ

 ある中学校で男子生徒のKが自殺した。彼は謎めいた「菅原拓は悪魔です」という遺書を残していた。菅原拓は自殺した生徒のクラスメイトであり、Kを含めて4名の生徒を支配し、凶悪ないじめを繰り返していたようだ。しかし、当の菅原拓はそんな人間には見えない、むしろどちらかというと暗く物静かな生徒だと周囲には認識をされていた。いじめを受けていたKを含む4名は明るく活発なグループで、菅原拓とは正反対の存在であったのに、どのようにいじめを受け、追い込まれていったのかが誰にも分からない。謎が謎を呼ぶいじめの真相に、Kの姉が使命感を持って挑む。だが、この事件には誰にも予想が出来ない、恐るべき真実が隠されていた。


第22回電撃小説大賞〈大賞〉受賞作『ただ、それだけでよかったんです』PV

 PVがあってビックリ

 いや、今の今まで知らなかったのだけど、最近はこうやってPVもあるんですね。電撃やるなぁ。本作を読み終えた私が見ても、上手く出来ているPVです。物語のおいしい部分をしっかりと表現していますね。

 他の受賞作のPVもあるのかな? その内、調べてみようと思います。

読むなら覚悟をして読むべき作品

 さて、こちらからネタバレを織り交ぜながら本作について感想を綴ろうと思います相変わらず、前段が長いのは申し訳ありませんが、ご容赦ください。

 本作の主人公は誰だったのか? 最初は勘違いをしておりまして、自殺の真相を探るKの姉だと思っていました。この小説は、基本的にはKの姉と菅原拓の二者によって語られていきます。お二人が語り部なわけですね。Kの姉は現在を語り、菅原拓は過去を語る役割です。その二人の視点が行ったり来たりして物語の真相に近付いていく、と。この構成自体はミステリとして良く出来ている印象を受けます。読者自身も事件の真相を探りつつ、お話に参加出来るわけですね。Kの姉は天然っぽい所もありますが、良きお姉さんといった感じで、弟の死の真相を探っていきます。

 Kの姉は行動力が抜群で、事件の外堀から調べ上げ、更に事件に関わりがあったと思われる人物に体当たり取材を続けます。これは、無鉄砲でないと出来ないことですが、それだけKの死に対して自分は何も出来なかったということに責任を感じてでしょう。なかなか泣かせる姉弟愛です。

 しかし、読み続けていく内に、このお姉さんと読者が真相に近付いていく度に、どうしてKが自殺したのかが徐々に明るみになっていくのですが、もう先にも書きましたがマジで驚愕の内容ですからね。私は思わず「マジか! そんなことがぁ!」ってなりましたからね。本当に居た堪れない結果に繋がっていくので、全部の真相が分かると感情が真っ黒になります。それくらい覚悟して読まなきゃならない小説なのです。

 なんで、感動する作品だと思ったんだろう? 間違えても感動はしないと思いますが、動揺はする作品です。ちなみに、主人公はKの姉ではなく菅原拓だった、というのも読み終わると分かります。

登場人物がクズい

 見出しで書きたいこと書いちゃいましたが、出てくる登場人物達がもうクズ過ぎて凄い。右も左もクズだらけです。まともな人間を探す方が苦労しますが、私の印象だとまともな人間は全登場人物合わせて1人くらいしか思い浮かびません。嗚呼、なんて世知辛いストーリーなんだ。心が病む。しかし、この多人数のクズっぷりを描いてくれた作者には喝采を送りたい。なかなかここまでは書けないと思うから。

 読書体験っていうのは、単純に感動だけを追い求めるのではなくて、世の中の暗部も知る事が出来る点が優れていると思います。闇を描く事によって「辛過ぎる! しんど過ぎる!」という印象を読者に与えるのも作者次第です。そう考えると、なかなかこのクズの描きっぷりは褒められる点だと個人的には思うわけです。

 最初は良い人だと思ってたあの人も、あれ、この人も? もしかしてこいつも!? うわ、クズばっかりや! と、気がつく頃には術中にハマっている感覚がありました。ただ、本当に優しくて誠実で人を助ける事に生きがいを感じるような人間なんて世の中には一握りしかいないでしょうから、真実の一端を突いていると言えば、そのような気もします。多分。

 登場人物達の清々しいクズっぷりは、なかなかこれまでの小説では体験出来なかった部分です。戸梶圭太の小説にはクズが沢山出て来ますが、それともまた違うクズっぷりですからね。しかし嫌いじゃありません。

物語の中枢を担う設定『人間力テスト』

 菅原拓が通う学校には、他の学校では実施されていない『人間力テスト』なるものがあります。これは物語の冒頭から解説が入るので、噛み砕いて簡単に説明してみます。

 人間力テストとは──学校に通う生徒同士が優れた人間を抽出するために実施するものである。例えば生徒にはこんな出題がされる。「政治家になるために必要な素質とは? 次の3つから選びなさい」「会社で出世するために必要な能力とは? 次の3つから選びなさい」。例えばこれらの回答が<発言力><優しさ><頭の回転>などだったりする。そして、次の設問には「クラスで一番、発言力があるのは誰か」「クラスで一番優しいのは誰か」などの回答を、自分以外の生徒名を入れて答える。これらを集計して、人間として優れた者を具体的に抽出し、ランキング形式にする。これがえげつない人間力テストというもの。

 このテストの結果は、学校側はすべて把握しているが、生徒自身には自分の順位だけが分かるようになっている。うーん、面白いですね。この物語には、この『人間力テスト』が根底に組み込まれていて、生徒達の悲喜劇を表面化させています。

 ちょっと勿体無いと思ったのは、この魅力的な設定を描いていたにも関わらず、実際に人間力テストが実施されているシーンがなかった事ですね。これが描かれていて、更に本筋と逸れても良いから別の生徒達のいがみ合いなんかが書いてあると、このテストが生徒達にどのような影響を与えているのかが、もう少し分かりやすくなったんじゃないかな。

 まあ、必要ないから削いだのでしょうけど。設定は優れていると思いました。実際に、現実でこのテストが導入されたら一瞬でPTAに潰されそうですけどね。恐ろしいテストだわ。

Kについて思ったこと

 超ネタバレになりますが、自殺をしたKはもともと菅原拓と親友同士だったという話があって、過去のエピソードではその仲睦まじさが好意的に、そして優しく描かれています。しかし、この二人がある出来事をキッカケに、全く違う関係性に陥ってしまいます。「ええ! そんなことあるのか?」と正直思ってしまいました。何せ、Kと菅原拓の仲の良さは強固な信頼で結ばれているように感じたからです。しかし、この学校のシステムや些細な見栄とか、人間関係とかが絡み合って救いようのない間柄となってしまった時に「そこまで変わってしまうのか?」なんて風には感じた。ちょっと、この二人の関係性の変化が、看過出来ない程で、それは余りにも不自然な感じがしました。この不自然さを取っ払うには、どういう表現が本来正しかったのかは分からないが、私はKにだけはまともであって欲しかった、と思ったのかも知れない。

 Kもまともじゃなかった。悲しい。

 Kはこの物語の中で唯一、死者として扱われるから、死者は酷く描いて欲しくなかったのかも、無意識的に? だけど、そうもいかなかったので、結論として、菅原拓にしてもそうだが、この物語で救われた人間は誰一人いなかったんじゃないか? と思います。これだけクズばかりの世界で、Kや菅原拓が救われないで終わったら(Kは死んでるけど)、結局何を描きたかったんだ? と言わざるを得ません。何だが結末辺りで菅原拓は救われたみたいな感じで描かれてたけど、あれでは本質的には救われてないんじゃないのか? まぁそれは読み手次第だとは思うけど。

 ここで物語の最後に、誰かに対しての救済が明確にあったのなら、もう少し人に薦められる作品になったのではないかと思うと少し残念な気もします。しかし、それすらも作者が意図しているのであれば、良い意味で私の完敗とも言えるのですが、それはもう、正直なところ分かりません。だからこそ、読むのには相当な覚悟が必要だと感じるわけです。ぶっちゃけお薦めはしませんよ。このテキスト読んでる人は、もう読んだ後の人でしょうけど……。

 ちなみに、私は懲りない人間なので、作者の二作目も読もうと思ってます。もっとクズが沢山出て来たら良いなぁという期待も込めて。

ネガティヴ人間の心情の移り変わりを丁寧に描いた『三日間の幸福』を読みました《評価・感想・レビュー》

ネガティヴ耐性が必要かも

 本作は<げんふうけい>名義を用いてネットでも活躍していた、元Web小説家、三秋縋の小説作品です。前々から気になっていて今回やっとのことで読んでみましたが、もう主人公が凄くネガティヴで辛かった(褒め言葉)。

 鬱屈系主人公の小説はこれまでも読んだことがありますが、本作もかなりのネガティヴ度合いではないでしょうか。表現やストーリー展開など、とても丁寧に描写されていましたので、リーダビリティの高い小説ではありますが、ネガティヴ耐性がない方が読むと終盤あたりまでは大変な思いをするかも知れません。ただ、ハッピーエンドを想定させるタイトルと、序盤からとにかく鬱々とした毎日を繰り広げる主人公に「きっとこの物語にも最終的には救いが訪れるはずだ!」と、そんな期待をしながら読み進めました。さて、結果はどうだったでしょうか?

 ちなみに、今回の読書時間は2時間程度でした。本書は166ページの文庫。

あらすじ

 人生の薄暗さに嫌気が差していた俺は、ある日寿命を買い取ってくれる店があると噂に聞く、半信半疑ながらもその店を訪れ店番に俺の値段を査定してもらうと、なんと1年につき1万円という衝撃的な結果が出る。将来に良いこともないことが分かり、未来を悲観した俺は、僅かの余生を残し大半を売り払ってしまう。

 残りの人生でやりたかったことをするが、何をしても裏目に出てしまい、更に絶望の淵へと歩み寄っていく。そんな俺の魂の拠り所となるのは、余生を見守る監視員のミヤギだった。彼女との毎日が、少しずつ俺の人生を変えていくことに、残り僅かの時間で俺は気付くことになる。

mwbunko.com

とにかく辛いストーリー

 ここからネタバレも交えての感想となりますのでご注意ください。

 物語冒頭から鬱々とした主人公の一人語り、過去の回想が始まります。曰く「昔は良かった。俺が10歳の時は……」といった話が主体です。

 主人公のクスノキは子どもの頃は大変頭が良く、周囲の人間を見下していたと、俺は将来とても立派な人間になるのだと、そんな風に考えているようでした。しかし、10歳だった頃から時が経ち、大学生になってみると、実は自分は大抵の人間と変わらない<普通の人間だった>と気が付いてしまいます。いや、それどころか、周囲の人間と積極的にコミュニケーションを取らなかったことが災いし、普通の人間以下の存在、価値としては最低の人間であると分かってしまいます。

 あらすじにも書いた通り、クスノキは寿命を買い取ってくれる店で自分を査定して貰った時にその事実を知るのですが、実際にとても辛いことだっただろうと思います。彼がその現実を受け入れられず「それでもいつか良いことがあるはずだ」という考えに陥ることさえも、未来に起こる出来事すら把握している査定業者(神なのか?)によると、クスノキの人生には良いことなんて一つもないということが確定してしまいます。

 これが本当に辛い。辛すぎる。

 我々というか、私もそうなのですが「いつかきっと良いことがある」と信じて生きている人間は多いはずです。しかし、それは自分自身の正常性を保つために自己を納得させているだけで「大体、このままの毎日を過ごせば、大して良いこともなく、しかし悪いこともなく、普通に人生は終わってしまうのだろう」なんてことも、心のどこかでは気付いてしまっています。ですが、その現実を受け入れて残りの人生、仮に50年あったとして、それを知ったままに生きるのは余りにも困難です。だからこそ「いつかきっと良いことがある」と自分に言い聞かせることによって、悪い言い方をすれば、自分を騙して生きているのではないでしょうか。それが普通でしょうし、当たり前な考え方だと思います。

 この小説の主人公は、そうした救いようがない事実を現実的に目の前に提示されてしまうわけですから、よくその時点で精神がぶっ壊れなかったなと、ある意味では感心してしまいます。価値のない自分の余生を大半売り払って、残りの人生を有意義に過ごすため、これまでやれなかったこと、でもやりたかったことを実行に移すという筋書きには、なるほどと思わされました。

やりたかったこと、とは?

 自分がもうすぐ死んでしまうと分かったら、人はどうするのか? というのは様々な物語や現実世界でも普遍的なテーマとして取り扱われますが、クスノキもご多分に漏れず<会いたかった人に会う>といったようなことを考えます。クスノキは幼少時代に唯一心を許していたヒメノという女性に会いたいと考えるわけですが、そうした些細な願い、自身が心からやりたかったことをやってみても、この物語ではことごとく裏目に出てしまいます。

 自分が心を許していた人が逆に、自分に好印象を抱いているなんてのは、まやかしだと、そんな保証はないということを教えてくれます。本書に限っていえば、かなり痛みを伴うエピソードでその現実が語られていくのですが、まあ辛いですね。結局、クスノキは、自身が見ていた他者と、他者から見られている自分の整合性を見失っていくわけですね。この小説では、そうした世界から裏切られ続けていく主人公を読者が観察することになります。我々もミヤギと同じく監視員の立場なのかも知れませんね。

 この辺りの描き方には、一個人が死ぬ前にやりたかったことをすることが、世界を変える切っ掛けにはなり得ないという作者のメッセージも読み取れます。クスノキは他者と接する内に、自身が世界からどう見られているのかを肌に感じていくわけですが、そこに来てやっと自分という人間が、世界にとっては取るに足らない存在であることを認識していきます。残酷な話ではありますが、クスノキにとっては、そうした事実が突き付けられることによって、良い意味で人目を気にしない自分の本来の姿を取り戻していくという結果に繋がっていきました。

残りの余生を誰かのために生きようという決断

 本書のタイトルである『三日間の幸福』の意味合いは、物語のラストで明確に描かれているのですが、この幸福については読み手によってハッピーエンドかバッドエンドか評価が分かれる部分だろうと思われます。私はどっちかな……シンプルな考え方でいうと、当事者にとって幸せであったならハッピーエンドだったのではないかと思われます。ただ、他者から見たら、バッドエンドかも。

 しかし、作者の意図としては<どちらでもない>が正解だったのではないでしょうか。本書の「あとがき」を読むと明確に描きたかったことが分かるのが親切です。攻略本くらい親切。

 主人公のクスノキは自らが生き辛くなるように物事を選択して生きて来た馬鹿であると、その馬鹿も自らの人生の残り時間を明確に認識することによって、やっと馬鹿な自分から解放され、自分が目を背け続けていた世界とやっと対峙することが出来ると。自分が拒否し続けていた世界がいかに美しく尊いものだったかを初めて認めることが出来ると。ただ、そうした認識を得ても、彼には残された時間は少ないのですが……。

 そんな彼が僅かの時間を最も自分が幸せだと感じられる結果を得ることが出来たのは、それはそれで満たされた結末となるのではないでしょうか。この、<満たされた>という点には幸福か不幸か、という意味合いは該当せず、単純に言い知れぬ充足感というものとご理解頂ければと思います。

 色々と考えさせられる小説であったことは確かですが、読み手を選ぶのは間違い無いでしょうね。感動巨編といった話ではありません。とても淡々とした内容ですし、起伏に富んだエピソードが含まれているわけでもないです。また、個人的にはヒメノとの邂逅についてはもう少し説得力を持たせた、彼女がクスノキのことを何故そう捉えるようになったのか、その理由をページを割いて描写して欲しかったですね。

 著者の小説はまだ何冊か買ってますので、引き続き読んでいきたいと思います。

公開終了日に今更ながら『君の名は。』鑑賞してきました《評価・感想・レビュー》

とても美しい映画だった

 私にとって、今日という日は忘れてはならない日となった。日は跨いでしまったが、2017年4月14日は忘れてはならない日だ。

 映画『君の名は。』だけでなく、自分の人生にとって、今日という日はある意味では一つの節目となる日となったからである。

 さて、それでは『君の名は。』について感じたことを書いていきたいと思うが、私は本作が公開されてから話題となっていることもあって、絶対にネタバレを見る事だけは避けようと極限まで気を遣って今日という日を迎えることが出来た。事前の知識は一切なく、映画の予告編しか観ていない。知っている情報は、男女が入れ替わる話であるということだけ。映画が公開されてから半年以上が過ぎ、ついに各映画館では軒並み上映が終了となりつつある中で、私は『君の名は。』を観ることが出来た。端的に、幸せな経験となった。映画を鑑賞している最中も、鑑賞後の今も、とても充実感のある幸せな気持ちを抱いている。とても良い映画だった。鑑賞出来て良かった。全てが美しかった。全てに意味があった。ハラハラしたし、ドキドキもした。見応えがあって、余韻も残る。現時点で興行収入が248.7億円。こんなに人が入った映画は、最近では『アナと雪の女王』くらいなのだが、それだけ多くの人が観たのも納得がいく素晴らしい作品だった。

 ちなみに、私が観た上映回は最終上映日のレイトショーだったが、40人余りの方が映画を鑑賞していた。「この中のどれだけの人が既にこの映画を観ているんだろう?」きっと、殆どの人は鑑賞済みなのかも知れない。そんなどうでも良いことも考えてしまった。

 以降、ネタバレを含む内容となるため未鑑賞の方は注意されたし。


「君の名は。」予告

すれ違うもどかしさ

 これまでに新海誠監督の作品で鑑賞をしたのは『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』『雲のむこう、約束の場所』『言の葉の庭』の4作品。『星を追う子ども』は近々観たいと思うが、私が鑑賞したそれぞれの作品全てに一貫していえることは、そのどれもが主人公とヒロインとの距離を主軸に描かれていたということ。物理的距離、精神的距離、場合によって異なるが<逢いたいのに逢えない二人>が描かれてきたように思える。いずれも切なく、もどかしく、苦しく、救いがない(気がする)。

 だから新海監督の作り出した本作も「もどかしく、すれ違う」作品なのだろうな、と漠然に思っていた。予想はある程度的中していたが、最終的には裏切られることとなった。

 私は映画を観る時にカタルシスを感じたいといつも思っているのだが、『君の名は。』にはカタルシスがあった。とても嬉しいカタルシス。

 これまで新海監督がすれ違いはすれ違いのまま終わらせていた所を、本作ではそうはさせなかった。この決断には大きな逡巡があったと思う、絶対に。これまでの新海監督のポリシーとは異なっているような気もするが、これは新海監督自身が、脱新海を達成した事になるのではないだろうか? 映画を観る我々がとやかくいうことでないのは確かだし、此処に無責任に書き散らしているのも無責任かも知れないが、私は「よくやってくれた!」と賛辞を、本当に心底から送りたい。

セカイ系に分類される物語だと感じた

 主人公の立花瀧とヒロインの宮水三葉は、ある日突然にお互いの身体(正確には心)が入れ替わり、お互いの日常を体験する“入れ替わり”をしてしまう。それぞれの日常に戸惑いを感じながらも日々を過ごしていくが、その出来事の重大な意味に二人は気付く事になる。

 それは三葉の住む町が隕石の被害に遭い、甚大な被害に見舞われてしまうという事、瀧はその事実に気が付き、何とか三葉と町を救おうとするが、二人の間には時間という絶望的な隔たりがあった……。

 このボーイ・ミーツ・ガールの基本的な設定に入れ替わりという(悪くいえば使い古された)手法を取り入れ、彼ら彼女らの世界を救おうとする物語は間違いなくセカイ系に分類しても良いだろう。このプロットは王道も王道で、ストーリーだけ場面場面を羅列してしまえば<とても普通で普遍的な>映画といっても間違いはないだろう。しかし、そこで新海監督の描き出す世界の描写、熟達したアニメーター陣の作画、RADWINPSの音楽、それぞれが奇跡的な相乗効果を果たし、観る者を感動させる効果を生み出したのは結果を見れば明らかである。私も映画を観ながら「何故、この映画はこんなに心を揺さぶるのだろう?」と考えていたが、それは私たちが日々求めている「こうであったら良い」「こうあるべきだ、こうなって欲しい」という気持ちをストーリーの中に織り交ぜてくれたからでないだろうか。

 私はいつも荒んだ毎日の中で「どうしてこうじゃないんだろう」「どうしてそうならないんだろう」というフラストレーションを抱えながら生きている。でもそれは、大抵の人がそうで、<誰しもが願う世界>が自分の現実世界に具現化して現れてくれる事なんてそうそうない。しかし、いつも心のどこかで物事がこう進んで欲しい、こうであったら良いのに、という気持ちは拭い去れない。私もいつも願っている。世界がもっと美しくあったら良いのに、世界がもっと幸せになれたら良いのに、と。

『君の名は。』はそうした私たちの「世界がこうであって欲しい」という願いを具現化して、それを観る者にとって最も美しさを伴ったカタチで表現してくれている。だから、観ていて喜びや幸せな感情が呼び覚まされるのだ。私たちが『君の名は。』を観ている時に「こうなって欲しい」「なんとか救われて欲しい」「二人が出逢って欲しい」といった無意識的な願いを叶えてくれる。斜に構えた見方をしてしまえば、御都合主義も甚だしいと評する者も当然いるだろうが、個人的な意見をいわせて貰えば、私は誰しもに幸せであって欲しいと願っている。救われて欲しいと願っている。そうした心の中にある願いを極めて直接的に描いてくれている本作は、観る者が安心して好きと思える優しさに溢れていたのではないかと感じる。

願いが具現化される、類い稀な結末

 本作の結末には当然、賛否両論が渦巻いているだろう。特に、これまでの新海誠監督の作品が好きな方にとっては、最後の結末こそが「そうなるか……」とがっかりしてしまう内容だったかも知れない。しかし、新海監督が当然あの結末を描くまでに思い悩んで右往左往したことは想像に難くない。あの結末は新海監督の覚悟そのものだったのではないだろうか。

 物語性の美しさを取るのであれば、瀧くんと三葉は最後に出逢ったかどうかまでは描く必要はなかった。出逢いそうだが、出逢うかどうかは鑑賞者の想いに任せる──そういった結末を描くことも当然出来ただろう。鑑賞後の余韻を強固なものにするのであれば、それもアリだったかも知れない。だが、今回の作品ではその明確な結末まで描かれた。これは願いの集積を表現するかどうかの狭間であって、描くことには躊躇がいるし、表現者としては絶対に思い悩むパズルの最後のピースだった。このピースを嵌めるか嵌めないか、これは大きな決断が必要だったのは間違いがなく、それでも結末をあのように描いたのは私は正解だったと思う。あの最後のピースが嵌ったことによって、本作がエンタテインメントの傑作として結実したのではないかと思うからだ。

 この映画を観る者の願いは、瀧と三葉の邂逅だ。物語の中盤から、その願いはどんどん強くなる。表現者としては如何ともし難い部分だ。そこを描くことによって、物語性の美しさが破綻することになるかも知れないし、新海監督にとってはこれまで自分が描いてきた『君の名は。』以外の物語をある意味では否定することになる。だが、それがなんだというのだろう? 二人が出逢うことが幸せなことであるならば、それを明確に描くことが物語の正当な帰着だ。私は、新海監督がそこまで描き切った、この結末を監督自身が受け入れたこと自体が本作がヒットするかどうかの分岐点になっていたと思う。よって、あの結末はこの上なく、正解だったのだ。

 これまで新海監督がすれ違いを徹底して描き、それこそが至高であったかのような言説は思考停止の産物だと思う。そういったレビューや評論は目にしたが、彼がクリエイターとして物語を完全に閉じるカタチで表現に決着を付けたことこそが『君の名は。』が新海作品の中で最も優れた傑作となった所以だと確信している。人は変わっていくものなのだから、新海監督自身がそうした自己を受け入れたことこそが本作の類い稀なカタルシスに結実したのだろう。今から次回作がとても楽しみである。次は早めに観よう、本当に。

断捨離は「ダン・シャ・リ」のヨーガ行法を利用した現代の呪文である

断捨離ヨーガ

 勿論、ストリートファイターの腕が伸びる人は関係ない。あれは本当のヨガの人だから火を吹いたり、テレポートすることも可能だが、今回の話には一切関係ない。

 断捨離はヨガの行法が元になっているらしい。断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)ってのがあって「断つ」「捨てる」「離れる」を超合体したものが断捨離なんだと。合体するのはゲッターロボと釣りバカ日誌だけにして欲しいものだが、断捨離も流行ってしまったのだから仕方がない。流行語大賞2010にもノミネートし、右も左も「ダンシャリダンシャリ!」世の中の一部の方々が「本気のバリバリなお掃除・整理整頓からの処分を断捨離っていうのな!」と壮絶な勘違いを起こして『断捨離』ワードを無闇に乱用している。

 つい最近、以下の記事が話題になった。ご存知の方は当然多いだろうが、いわゆる『息子のマジック:ザ・ギャザリング母親が勝手に断捨離未遂事件』である。

nlab.itmedia.co.jp

 一部では「悪質な釣りやろ!?」という意見も出ており、それもそうやなと私も思いつつ、しかしこれが真実か虚構かってことよりも出品者(母親)の「断捨離の為、片づけをしています」という書き込みが世界の闇を如実に表しているように感じたのだった。<断捨離>というワードを利用して自己正当化したいだけじゃないの? そう思った私は本当に怖ろしいと感じた。温暖化・幽霊・饅頭・断捨離──人々が恐れる言葉が新たに誕生してしまったんじゃないか。

 本件に限っていうと、引っ越した息子が残していった物を勝手に売り払おうとしているのだけど、それって本当に断捨離なのか? 本来の断捨離の意味は「生活に調和を齎そう」だったはずだ。家族の絆を断捨離して得られるものは後悔だけじゃないのか? ダン・シャ・リは滅びの呪文、個人的にはバルスよりも破壊力がある気がする。暴走した魔力が爆発を起こすカルベローナで代々伝わる例のアレくらいは強力なはずだ。

断捨離を魔法の言葉にして自己正当化するのは無理筋である

 この断捨離を唱えて家族の所有物を勝手に捨てる行為は、MTGに限らず度々発生している。その都度、インターネットで話題になってプチ炎上が発生する。夫のコレクションを勝手に断捨離したとか。

togetter.com

 ここでひとつ誤解なきように記したいのは、私は『断捨離』という言葉自体を否定したいわけではなく、断捨離を免罪符にして好き放題にやる行為がよろしくないと述べたいのだ。江戸時代の武士が切捨御免するくらい得意げなのが良くない。いや、武士が得意げだったのかは知らないが、勘違いした人は「断捨離! 断捨離!」って言っとけば人の物を捨てられると思っているのが最悪だ。その誤認識で家族間争いなどが起きてしまえば、下手すると事件にも発展しかねない。十分に気を付ける必要があるのではないか。それくらい断捨離ワードを使用する時は覚悟をして欲しいし、本来の正しい意味で用法・用量を守って欲しいし、端的にいえば断捨離するのは自分の物だけにして欲しいわけですよ。

実録★私のされた断捨離事件

 何でこんなことを長々と書いているかというと、実際に私が被害にあったことがあるからですよ。最悪でした。断捨離と言えば何でも許されると思っているのが怖いです。バンジージャンプ・スカイダイビング・ダンシャリ……この経験を記しておきたい。

 私は学生の頃、アルバイトで稼いだお金を月に3万円くらい本・CDに遣っていました。勿体無いですね。しばらく働いていると、そりゃ結構な量になってしまったわけで、本は1,000冊くらい。CDは1,500枚くらいになっておりました。これ、ダンボールに入れて保管してたんですけど、ある日家に帰ると全部なくなってたんですよね。「あれー?」って思うじゃないですか。結構、希少なものもあったんですよ。三才ブックスの『ファミ・コンプリート』なんてもう金掛けないと手に入らないし、Nomakの古いmixアルバムとか超レアだったんですよ。それが全部なくなってましてね。「あれぇー?」ってなるじゃないですか。

 それで両親に聞いたら母親は知らなかったみたいなんですが、父親が「いらないと思ったから断捨離した」「ブックオフに売った」みたいなことを仰るわけですよ。ぶっちゃけ殺意の波動に目覚め掛けましたが、よくよく聞いてみると、勝手に売ったお金は酒代とタバコ代とスロット代に消えてしまったそうで、私が10年以上掛けて集めてた沢山のアイテムたちが天国か地獄に行ってしまった。もう絶望感とか失望感とか虚無感とか色々なものが渦巻いて、いい歳して泣きそうになったんですが、もうダメ元でそのブックオフに連絡したわけですよね。そしたらまだ一部の商品は残ってたようで、お金を払うから返して欲しいと懇願したら、その日の内に家まで持って来てくださいました。

 ブックオフは迷惑な話だったかも知れませんが、買い取って貰った商品の内で半分くらいは既に何処かへ発送されてしまったようで、全部は返って来ませんでした。何故、こんなことが起きてしまったのか……買った物をダンボールに入れていたのが良くなかったのか、私の日頃の行いが悪いのか、ちゃんと「このダンボールに入っている物には触れないこと! 間違っても売らないこと!」って貼り紙をしていなかったからなのか。若干、怒り口調で父親に「勝手に人の思い出を売るなよ!」と言いましたが「ごめんなさい」と返答されて終わったので、もう別の意味で終わったな! と、逆に清々しい気持ちになるのでした。売却分のお金も返して貰ってません。プライスレスの意味を考えてしまいました。お金で買えない価値はもう戻って来ない……。

 しかし、「断捨離した」ってのはどういうことだったのでしょうか? 未だによく分かりません。それと、三才ブックスの『ファミ・コンプリート』だけでも弁償して欲しいと思ってます。初版本だったのに。

断捨離は本来の意味を、本を買って勉強してから使用して欲しい

 これ以上、どこかで悲劇が起きるのを黙って見ていたくありません。その内、またプチ炎上は発生するだろうし、誰かが勝手に誰かの何かを売ったりしているかも知れない。許可取ってくれ許可を! 本気で私は願うのでした。今思い出しても、先述の出来事は残念です。あゝ無情。

あらゆる意味で崖っぷち!? 壮大な企みに満ちた『崖っぷちの男』を鑑賞しました《評価・感想・レビュー》

邦題のタイトルセンスが良くて惹かれる

 何が良いって<崖っぷち>って言葉が良いですよね。原題も『Man on a Ledge』ってことで、結構そのままな気はしますけど、崖っぷちって焦燥感とか悲壮感とか、そんなイメージを上手に表現出来ていて好きです。追い詰められて追い詰められて──死ぬか生きるかのDEAD OR ALIVE、そこから大逆転をして勝利する! というのがタイトルだけで読み取れるのが非常に優れています。きっとこの映画は王道のエンタテインメント・サスペンス、起承転結がハッキリしていて分かりやすくて気楽に観られる、はずだ。

 そう思って鑑賞しました。実際はどうなんでしょう? ここまでに書いた内容はイメージで、勝手な先入観ですからね。

あらすじ

 ニューヨークにある高級ホテルの高層階、窓の外に立ち今にも飛び降りようと装う脱獄囚のニック・キャシディ(サム・ワーシントン)は並大抵ではない決意を固めていた。ニックは元警察官だったが、不当な策略に陥り、4000万ドルのダイヤモンドを横領した罪に問われていたのだ。

 彼は自らの無実を証明するため、一世一代の賭けに出ることにした。この崖っぷちの状況こそが、彼が多くの時間を掛けて用意した重要な舞台だった。

 ニックは自らの指名で女性刑事リディア(エリザベス・バンクス)を交渉人に指名するが、果たしてニックの思惑とは? 如何にして過去の汚名をそそぐのか? ニューヨークの一角でニックが巻き起こすパニック、多くの群衆の前で、極限のエンタテインメントが始まる……。

www.youtube.com

何となく、あの名作を思い出す

 地上と高層階の違いはありますが、一つの場所に留まるサスペンスなシチュエーションということで、コリン・ファレル主演の『フォーン・ブース』を思い出します。『フォーン・ブース』は傑作ですよ、電話ボックスに閉じ込められるって発想も良かったですね。展開が早く結末まで見ても謎の多い作品ではありますが、一度は観て損は無いと思います。ふと調べてみたら電話ボックス映画は2003年作品だった……14年前かよ! 歳も取るわな。

 さて、以降は『崖っぷちの男』が如何に崖っぷちなのかをネタバレしつつ書いていきます。未見の方はご注意ください。観てから読んでください。

やっぱり高層階でドタバタするって設定が良い

 この作品の肝ですが、主人公が目的も分からないままに高層階の窓の外で右往左往する姿がとにかく良いですね。シチュエーションとして、これほど引きが強いのも珍しいのでは? 鑑賞者としては「何故そうなった? どうしてそんなことを?」と興味を抱きながら鑑賞することが出来る。物語冒頭でニック・キャシディは女性刑事リディアを呼び出すが、このリディアこそが我々、鑑賞者側の味方である<探偵役>となって、ニックと対峙し、彼の行動の謎を探ってくれる。

 リディアはリディアで、ある種の問題児ではあるが、この映画で登場する刑事達の中では感情移入がしやすい魅力的なキャラクター造形だった。男勝りのおてんば女刑事ということで、週刊少年ジャンプの連載終了した人情警察漫画に出てきそうな感じもあったが、アメリカの実際にいる女刑事ってどんな感じなんだろう? という、どうでも良い妄想も広がることに。

 まあ、そんなことは本当にどうでも良いのですが、彼女とニックのやり取りが自殺志願者と交渉人の間柄とは思えない程にゆるくて、緊張感があまりない。まぁ、ニックには元より自殺する気は無く演技なのだから当然ですが、ここについてはそんなにハラハラドキドキはしないので、もう少し緊張感を高める設定もあって良かったんでないかな。

ニックの目的とは何なのか?

 ニックの目的はあらすじの項にもある通り、ダイヤモンドを横領したという無実の罪を払拭することです。彼を陥れたのは宝石商にして不動産王、つまり究極のアメリカ的金持ちであるデビット・イングランダー(エド・ハリス)なのですが、実はデビットがニックに盗まれたと主張する巨大ダイヤモンドは、実は盗まれていなくて、まだデビットが所持しているというのです。

 この物語の背景を簡単に説明すると、デビットが経済危機(リーマン・ショックだったかな?)で事業が立ちいかなくなる可能性が出てくる→何とか資金を調達しなければならないので保険金詐欺を思いつく→ニックが警官時代にデビットのダイヤモンドを盗んだと濡れ衣を着せられる→ニックまんまと逮捕、ダイヤモンドは砕いて既に売り捌かれたということにされる→デビット、何も盗まれてないけど多額の保険金GET!! やったね! という感じ。つまり、ダイヤモンドはまだデビットの手元にあるはずだから、それが存在することをニックが証明出来れば晴れて無実を立証出来るわけです。

 そのためにニックが考えたのは、デビットのダイヤモンドを盗み出して盗まれてないことを証明する……って結局、盗むんかい! 当然のツッコミを入れざるを得ませんが、無法には無法という如何にもアメリカらしい発想で嫌いではありません。一発殴られたら一発殴り返したくなるのが人間味溢れています。

裏舞台で展開されるなんちゃってミッション:インポッシブル

 先の項で書いた通り、ダイヤモンドを盗まなきゃならないのですが、デビットは要塞ばりの大型金庫にそれを保管しているので、そんな簡単に事は進みません。ニックは自らの親族を協力者にしてそれを盗み出そうとするのですが、これがミッション:インポッシブル感満載の内容だったりします。

 数々の防犯装置を潜り抜けて金庫破りをするニックの身内は間違いなく素人さんのはずなのですが、見事に目的地まで到達。描かれてなかっただけで潜入・強奪のプロだったのかな? 数々の偶然に助けられながら金庫破りを達成してダイヤモンドを手に入れようとするも破った金庫にダイヤモンドがない!? という逆転ホームラン的な展開には「デビット流石やな」とニヤついてしまうこと受け合いですが、この後のダイヤモンド争奪戦に移っていく原因もデビット自身が気紛れで金庫からダイヤモンドを取り出してしまうことが発端ですので、ご都合主義感が半端じゃなく「どうして映画の悪役は屈強な金庫を信用出来ないのか問題」がまた噴出することとなるのでした。お約束ですけどね。

とにかくツッコミを入れたい二つのこと

 色々と書いてきましたが全編通して至って普通に観られて良い作品でした。あくまで普通ですけども。

 ただ、どうしてもツッコミたいことがあります。

 まずひとつめ、ニックが物語前半で警察の拘束を逃れてカーチェイスを繰り広げるシーンがあります。その中でニックが運転する車が思いっ切り貨物列車と衝突して横転(というか、完全なる交通事故)するのですが、何故か彼は無傷でピンピンしてます。これには疑問を感じざるを得なかった。実際は擦り傷くらいは負ってたかも知れませんが、直後のシーンで塀を乗り越えたり軽快に身体を使う様子も見えてたので、何らかの手段で車から脱出したのだろうか? ならば車から飛び降りる所とか描写して欲しかった。普通に観てたら「これは完全に死んでいる。主人公死亡とは斬新!」って絶対に思うハズです。超人なのか、ハンコックなのか。

 次にふたつめ、映画の最終盤に描かれる大どんでん返し。実はあの人の正体は○○だった! というのが本作にもあるのですが、無理やり感が半端じゃなく「え!? それ必要か!? その設定いるか!?」となってしまいました。うーん、疑問です。あの人の正体が○○だったのなら、映画全体の目的意識が若干薄れてしまうような気がしてならないのですが、どうなんでしょうか。まあ、爽快感だけが残るように敢えてしているのかも知れませんね。

 というわけで、本作はサッパリした後味の良いスパークリングワイン風味のソーダみたいな映画でしたね。気楽に観られる感じです。

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